服部智行監督と映画『音の城♪音の海 -SOUND to MUSIC-』について

服部智行監督と映画『音の城♪音の海 -SOUND to MUSIC-』について

 

 

服部智行監督と知り合いになって、私は智行さんに興味を持ちました。
請求に近いような厚かましい態度で、智行さんの監督作品である映画『音の城♪音の海 -SOUND to MUSIC-』を見せていただくことができました。

 

 智行さんに興味を持ったというのが主体なので、ここで映画評論をつらつらと書き出すということはしませんし、映画の内容解説を目的としてもいませんので 映画の内容を知りたい方は、他のサイトを観てくださいね。 ですのでここには、私が『智行さんの作品を見た』という意味合いで思ったことを書くことにします。 作品を見ながら思ったこと程度なので文章というよりセンテンスの羅列や作品を見ながら書きだしたメモ位のものです。

 

 

 

『音の城♪音の海 -SOUND to MUSIC-』

常識と戦う大人たちと、秩序に困惑する障害者。

言い換えれば、混沌に陥らないように希望に活路を見出そうとする大人達の姿。

音楽に対する反応は本能的であり、反射的である。

音楽の原始的な要素と、音楽を音楽たらしめる根幹的な必要要素が見えてくる。

 

 

 

 

映画の前半部を見ながらメモしていたのはこんなところだった。ここまでは障害者を被写体とした多くのドキュメンタリー作品にある問題定義として観ることができる。 私としては、ここまでを【音の城】とする。

この作品の素晴らしさはここからである。音楽家  大友良英さんが参加することで物語は大きく転がり始める。
(あるところに平和ボケしたお城に住む兵士達がいましたとさ。 このお城の中の人達はそれなりに楽しくやっていたんでしょうけどね。 
ある日、すばらしい騎士がお城にやって来ました)

 

 

ビートや変調から生まれる高揚感による人間同士の共振は音である。音を聴く者を意識して加工したものが音楽である。

大友さんの障害者との接し方や音楽に対する理念は、他の音楽家と違う。 大友さんの登場以降は、他の音楽家の多くは障害者を障害者として見ているように感じさせられる。 大友さんは障害者を音楽をやっている人間、または彼らを半ば楽器として捉える必要性を感じたのではないか?

現在も活動中の[音遊びの会]が今後、音楽というものに対してどういった拡張の可能性を見出していくのだろうか。
(すばらしい騎士は革命を起こします。革命というものはみんなに賛同されるものではありません、はたして正解なのか、間違いなのかもその時にはわからないのものです。革命を起こした素晴らしい騎士は兵たちを引き連れて広大な【音の海】のその先へ向かって旅立ってゆくのでした。チャンチャン・・・END)

 

予定調和の演奏は障害者にはもちろんできない。しかし、[音遊びの会]のプロジェクトは演奏会を行う。 そこで起こるハプニング性を含めて一つのライブとして捉えさせられる時に私やあなたはどう思うのか?我々はどう障害者の音楽を受け止めればよいのか?

 

混沌に天才の片鱗を見出すか

愛の手の内にヒューマニズムの充足感を得るか 

有限な世界に存在する音楽の可能性と認めて、この未解の鉱脈にマトックを振るうか

 

 

というようなことを作品を観て想起させられ考えさせられました。私は考えたかったのではなくて考えせられたのです。
良い作品を鑑賞するということはこういうことなのだと思う。

ドキュメンタリー監督が手に持っているのは【メス】 あの手術や解剖の時に使う極めて鋭い刃物だ。
ドキュメンタリーという世界はどうしたってメス以外を持つことは許されない。
ドキュメンタリーに興味をもち、自ら創りだそうという者もまた、刃物を持つ事に興奮したからドキュメンタリー作品を創るのだろうと思う。
しかしその刃物はある人から見れば、ただの凶器である。 またある人から見れば、人類の回復に必要な手術用具である。
どちらにせよ刃物を振り回すに違いはない。刃物を取り扱う者の覚悟は私の知るところではないが相当なものなのだろう。
私がこの作品を観てはっきりしたのは、服部智行監督は愉快犯ではない。

ドキュメンタリーは真実であり、真実というのはたかだか現実だ。
たかだかの現実に対してメスを入れることで、人類を回復させるという大きな仕事をするのがドキュメンタリー監督としての仕事の成功だと思う。
智行監督。あなたのドキュメンタリー監督としての仕事は成功です。私という人間はこの作品を観て回復しました。

智行さんと知り合えたこと、そして作品を鑑賞する機会を与えていただいたことに感謝いたします。新たな作品を楽しみにしています。