感想 ある5人をめぐる旅 服部篤浩展

感想 ある5人をめぐる旅 服部篤浩展

私は今回の展示【ある5人をめぐる旅 服部篤浩展】に、ディレクターに近い存在として参加することを許してもらった。作家というのは誰しも頑固でこだわりが相当強いものだから、自分の作品やテーマに対してあらゆる面に口を出すような存在は許せないものだ。
しかし、服部氏の芸術に対する追求心は、自身の作家としてのプライドを飼いならし、新たな芸術を模索することを可能にした。

私は会期中のほとんどの時間も展示会場で過ごした。 会場で私が目にしたのは、私自身が今まで作家活動をしてきた中で出会ったことの無いすばらしい光景だった。それは、作家の作品が理解され観客の心に伝わるという光景だった。 作品世界に精神的に没入し、作品に耳を傾け、対峙し、理解し、自分の中に落とし込む。その一連の工程の中に面白さや感動を憶える。今まで芸術作品に触れたことのない若者や年配の方が会場内で長考したり、会期中に複数回来場してくれたり。「芸術の楽しみ方が初めて分かった!」という感謝の声を作家に直接くれる人も多かった。この光景こそ、今回の展示で私が目標としていた光景であった。
会場には展示作品に対する説明文を付属し、説明に必要な例えとしての風景画も設置した。今回の展示は決してコンセプチュアルアートでもないし、説明の多すぎる展示だとも私は思わない。 人に伝えたいものを伝えるために最低限必要な展示内容を設定しただけのことだ。

芸術をかじればかじるほど作品鑑賞時に最も重要であっただろう、その作品がもつ世界への精神的没入を困難にする。全ての人がそうだとは言わないが、多くの人がそうだと言わざるをえない。もちろん絵を描く人はその絵の画面にどう絵の具がこびりついているかの興味は尽きないだろう。絵描きは描くというテクニックに直結し、その具合で絵画の良さを決定づけるものだ。 しかし、絵画というものが布に絵の具がこびりついている状態、紙をインクで汚した状態、それだけのものとして存在するのなら価値など全くない。
絵画なり、文学なり、詩なり、映画なり、そういったものに価値がある理由は唯一。それらが創りだす世界に精神的没入をすることが可能だからだ。 たとえ紙ナプキンに付いたコーヒーのシミ汚れだろうと、そこに何かを感じられる時がある。何かを感じるというのは、その汚れを精神的に見つめられている状況にあると言える。 精神的にモチーフを見つめるということは作家なら当然できることだが、観客がこの見つめ方を必ずしもできると思い込んではいけない。 観客に対して作家が自らの作品とテーマを伝えたいと思うならば、こちらが歩み寄らなければいけないのは当然だと思う。 展示を終えて、作家の作品を観客に本当の意味で伝えるという、ディレクターとしての私の仕事はまずまず悪くない結果が出せたと思っている。

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